GLOBE 第73回 2001年5月26日土曜日
「自由をどこまで認めるのか〜市場・個人・政府」テキスト
作成:天水地 かなた AMAMICHI, KANATA
参考文献
『自由はどこまで可能か〜リバタリアニズム入門』 森村 進 2001年2月20日刊 講談社現代新書 660円(以下価格は全て税抜き) もりむら すすむ 1955年生まれ。東京大学法学部卒業。現在、一橋大学大学院法学研究科教授。法学博士。専攻は法哲学。リバタリアニズムの立場に立つ。
『国家民営化論〜ラディカルな自由社会を構想する』 笠井 潔 2000年12月15日刊 光文社知恵の森文庫 571円(初出 1995年11月 光文社カッパ・サイエンス) かさい きよし 1948年生まれ。1979年、パリ滞在中に書いたミステリ『バイバイ、エンジェル』から執筆活動を開始。本格ミステリなど小説の分野で作品を発表する一方、『テロルの現象学』など思想書・評論でも知られる。「ラディカルな自由主義」を主張。
『正義の見方』 宮崎 哲弥 2001年3月10日刊 新潮社OH!文庫 600円(初出 1996年7月 洋泉社) みやざき てつや 1962年生まれ。慶応義塾大学社会学科卒、法律学科中退。評論家。専攻は政治哲学。コミュニタリアニズム(共同体主義)の立場から発言。
『憲法』 伊藤 真 1998年3月30日刊 弘文堂 伊藤真試験対策講座5 3800円 いとう まこと 1958年生まれ。東京大学法学部卒。1984年弁護士登録。現在は弁護士登録を抹消し、「伊藤真の司法試験塾」での指導に専念。
『現代経済学の巨人たち〜20世紀の人・時代・思想』 日本経済新聞社 編 2001年4月1日刊 日経ビジネス文庫 695円(初出 1994年2月)
「『性的リベラリズム』批判」 小林正弥 『〈宮台真司〉をぶっとばせ〜"終わらない日常"批判』(第3章) 諸富 祥彦 編著・トランスパーソナルな仲間たち 著 1999年1月31日刊 1800円 コスモス・ライブラリー発行/星雲社発売 こばやし まさや 1963年生まれ。千葉大学助教授(比較政治学・政治哲学) もろとみ よしひこ 1963年生まれ。千葉大学教育学部助教授・臨床心理士。日本トランスパーソナル学会会長。自称、時代の精神(ニヒリズム)と闘うカウンセラー。
『恋愛の超克』最終章 小谷野 敦 2000年11月刊 角川書店 1300円 こやの あつし 1962年生まれ。東京大学英文科卒・比較文学比較文化専攻博士課程修了。
はじめに
政治学・経済学など社会科学の分野では古くから市場や個人の自由にどこまで政府が介入するかという問題について対立・論争があります。今回はリバタリアニズムという考え方を軸に、個人または企業・団体の自由はどんな場合に規制されるべきなのか、規制されるべきではないのか、言いかえると、個人・企業・団体の自由に対し他者の介入をどこまで認めるのかという問題を考えたいと思います。またリバタリアニズムと対立するとされているコミュニタリアニズムも紹介します。
最初に憲法学的な観点からの近現代の国家観の移り変わりについて話しましょう。市民革命をへて19世紀に確立した立憲主義は、国家は市民の生活に干渉しないほうがのぞましく、政治的・思想的な干渉だけでなく、経済的干渉もせずに、最小限の秩序と治安の維持だけが国家の役割であるという「自由国家」「消極国家」「夜警国家」の考えに立っていました。このもとで資本主義経済が大きく発展しました。(ただし、市民革命直後は、伝統的な共同体を壊して個人の自由を確保するという考え方にもとづき、ギルドという職業組合や地方都市を解体するなど、国家の積極的な介入がありました)
資本主義経済の発展につれて、貧富の差が拡大し経済的弱者が生まれます。この人々を放置しておくことはかえって個人の尊厳を否定することにはならないかという考え方が出てきます。経済的弱者に対しては国家が積極的に介入して最低限の生活を保証すべきだという国家観を「社会国家」「福祉国家」と言います(伊藤真『憲法』)。政府が公共事業を行なって積極的に労働者の雇用を保証するというのもこの考え方にもとづきます。
しかし、ご存じのとおり、やがて肥大化した国家財政が問題とされるようになります。1980年代、アメリカの経済学界では、政府の財政金融政策は無効または有害であり、経済効率化のために規制緩和と民営化をすすめ、市場を有効に機能させるべきであると市場万能主義を主張する諸学派が主流となり(佐和隆光「P.A.サムエルソン〜科学としての経済学」『現代経済学の巨人たち』収録)、また、イギリス、アメリカ、日本で国営企業の民営化、規制緩和の政策がとられました(サッチャリズム、レーガノミクス、ナカソノミクス)。
この政策方針に対し福祉・教育予算の切り捨てだとする批判があります。経済学者の森嶋通夫氏の一連の著書によればサッチャー政権によって大学の予算の大幅な削減が実施されました。また、これらの政権は、国民に対し自分より上の存在への従順さという意味での道徳心の強調、他国・多民族への強硬的な態度という共通点があります。
森村進『自由はどこまで可能か』
先ほど述べた、今回のキーワードでもあるリバタリアニズム libertarianism (形容詞形は libertarian )ですが、はじめに知ったのは『〈宮台真司〉をぶっとばせ!〜“終わらない日常”批判』収録の「『性的リベラリズム』批判」(第3章 小林正弥)によってですが、その文中ではリバタリアニズムを古典的自由放任主義につらなるものとして批判的に紹介していたので私はリバタリアニズムに対しあまりよい印象を持たなかったのですが、『自由はどこまで可能か〜リバタリアニズム入門』(森村進)や『国家民営化論〜ラディカルな自由社会を構想する』(笠井潔)を読んで、これは認めるべき部分もあると考えました。森村氏と笠井氏の考えにはあきらかな隔たりがありますが、まず森村氏の『自由はどこまで可能か』について説明しましょう。
下記の表は、森村氏がアメリカのリバタリアニズムのいくつかの教科書に載っている図として紹介したものを私が多少ことばを変えて作成したものです。「軽視」を「規制・介入」の方が良いと考え変更し、また「尊重」にも「不介入」の語を加えました。
| 経済的自由 | |||
|---|---|---|---|
| 規制・介入 | 尊重・不介入 | ||
| 人格的自由 | 規制・介入 | 権威主義・全体主義 | 保守主義 |
| 尊重・不介入 | リベラリズム・社会民主主義 | リバタリアニズム | |
精神的自由、政治的自由といった人格的自由を尊重する一方で経済的自由への政府の介入を認め所得の再分配るのがリベラリズム liberalism 、人格的自由への介入を認め(国民的道徳などの重視)経済活動の自由を尊重し市場への政府への介入を最小にとどめるのが保守主義 conservatism(「保守的」は conservative )、人格的自由も経済的自由も尊重し、政府の介入をできるだけ避けるのがリバタリアニズム libertarianism です。そしていずれも規制したり介入するのが権威主義や人民主義で、極端なかたちが全体主義(ファシズムや共産主義)だと森村氏は分類しています。
森村氏は2つの論点によってリバタリアニズムを分類します。
いかなる国家(政府)までを認めるか。
諸個人の自由の尊重を正当化する根拠は何か。
前者の論点について、
A.国家の廃止を主張するいちばんラディカルな立場のアナルコ・キャピタリズム(=無政府資本主義)または市場アナーキズム
B.国家の役割を国防・裁判・治安・その他の公共財の供給、あるいはその一部だけに限定しようとする最小国家論
C.それ以外にある程度の福祉・サービス活動も行なう小さな政府をとなえる古典的自由主義の3つの相対的な立場を挙げています。
後者の個人の自由の尊重を正当化する根拠という論点について、
(1)基本的な自由の権利、特に自己所有権に訴えかける自然権論
(2)自由を尊重する社会の方がその結果として人々が幸福になるとする帰結主義
(3)理性的な人々だったらリバタリアンな社会の原理に合意するはずだとする契約論
の3つに分けています。
つまり、計算上は9つのタイプのリバタリアンがあることになり、森村氏は下記の表のようにリバタリアンの論客を挙げています。
| いかなる国家(政府)までを認めるか | ||||
| アナルコ・キャピタリズム(=無政府資本主義) | 最小国家論 | 古典的自由主義 | ||
| 諸個人の自由の尊重を正当化する根拠は何か | 自然権論 | ロスバード | ノージック | ジョン=ロック、トマス=ジェファーソン、森村進 |
| 帰結主義 | デヴィッド=フリードマン、竹内靖雄 | ランディ=バーネット | ミーゼス、ハイエク、おそらくはアダム=スミス、ミルトン=フリードマン | |
| 契約論 | ジャン=ナーヴソン | ジェームズ=ブキャナン | ||
また、森村氏は笠井潔氏の主張をアナルコ・キャピタリズムに分類していますが、自由の正当性の根拠は上に挙げた(1)自然権論(2)帰結主義(3)契約論のどれにも当てはまらないとしています。
リバタリアンは個人の自由が権力によって規制されることを嫌い、民主主義がきちんと機能している大きな政府でさえも認めません。先に述べたリバタリアンの類型とは別に、自己の身体については自己所有権を認める一方、労働の産物も含む外界の資源については平等主義を適用したとえば政府による再分配の正当性を主張する「左翼リバタリアニズム」については森村氏はリバタリアニズムのカテゴリーに入れるのは適当ではないと書いています。
笠井潔『国家民営化論』
森村氏は笠井潔氏をアナルコ・キャピタリストと呼んでいますが、笠井氏は自分の思想を「ラディカルな自由主義」と呼び、リバタリアニズム、アナルコ・キャピタリズムとは起源・思想的前提は異なり、具体的な問題については偶然似たところに到達していると言います。笠井潔氏は森村氏とは考え方が違いますが、その理由の1つにエゴイストが他者にあたえる影響を森村氏よりもずっと重大視していることが挙げられます。
各論
ここからは具体的な問題について森村氏と笠井氏の見解を挙げます。( ( )内は『自由はどこまで可能か』と『国家民営化論』のページ数)
〈環境〉
【森村】
環境破壊の原因は私有財産制度の不徹底である。公害は自己責任原則の不徹底から生じる。大気や水の汚染は利用者の人身と財産への侵害であり、その防止策として不動産所有権の厳格な執行(事前差し止めと損害賠償)をすべき。その際、伝統的な過失責任主義でなく無過失責任主義をとるべきである。環境破壊の最大の元凶は経済的に採算のとれない公共事業を行なう政府である。資源が私有されず無主物として扱われると濫用されやすい。(198-207、81-82)
【笠井】
エコロジストの世界独裁を樹立し全人類に禁欲を強制することは許されない。(南北問題での)南の世界の餓死寸前の人間が、自分が悲惨な生と死を強制されている以上人類もまた自分とともに滅びるべきであると考えても、富裕な北の世界の住人は非難できないのではないだろうか。北の住人としてはプラント援助をする場合には公害防止技術をともに提供することなど。(268)
〈国家と個人の同一化・戦後補償〉
【森村】
リバタリアニズムでは国家や政府は諸個人の基本的権利を保護する道具である。国家への個人の心情的・規範的同一化に徹底して反対する。ところが、現代の日本ではナショナリズムに反対しているはずの言論人が戦争責任を戦後世代が引き受けることを主張している。それは戦前戦中戦後を通じた「日本人」という国民集団への帰属を強いることを意味する。これこそ否定されるべきナショナリズムの一類型である。(131-132)
【笠井】
日本の侵略戦争の被害者に対する国家的な補償と国家的な謝罪を分離すべきである。元従軍慰安婦、植民地から徴兵された兵士、強制連行された外国人労働者、強制連行され原爆被曝などの被害を受けた人には早急に補償すべき。アジア諸国では国家が戦争被害者の頭越しに日本と講和条約を締結したと考えられる。元従軍慰安婦の賠償請求に対し日韓条約で解決済みと応じるのは責任逃れにすぎない。財源として特別税を設定することも必要かもしれない。戦前から継続している日本国家のフレームにおいて経済的利益を得ている以上、戦後世代も負担せねばならない。近年日本国籍を取得した中国、韓国、フィリピンなどの出身者も同様である。国家的謝罪に関しては形式的にのみ可能で原理的に不可能である。謝罪すべきは実際に戦争犯罪行為を犯した本人である。(247-250)
〈防衛〉
【森村】
詳述見当たらず。
【笠井】
日本への侵略に対しては武装した個人による市民軍で対応すべき。平時から携行火器の操作方法などの訓練を無料で受けられるシステムを完備し、部隊編成や指揮系統などのマニュアルを研究しておく必要がある。戦車や軍用機、軍用艦船は不要。対戦車ミサイル、対空ミサイルを上限とする。1億2000万人の武装した市民による徹底抗戦に対しこの国を征服できる軍隊など存在しない。20万人の自衛隊よりも防衛力として強力である。(261-262)
〈相続〉
【森村】
死者には意思を持たないから行為の主体たり得ない。よって相続税は所有者がない財を取り上げる制度であり正当化できる。所有者が生きている生前贈与への課税は正当化しがたい。なお、多くのリバタリアンは私有財産の尊重から相続税に批判的である。(152-160)
【笠井】
遺産相続の廃止。財の取得者の子どもは財を稼ぎ出した本人ではない。一生をかけても追いつけないスタートラインの不平等は解消されねばならない。死亡時の不動産の所有権移転を前提として終身年金を保証する私的年金制度の確立。死後、財産は生前指定した遺産管理会社が管理・運用し社会事業を行なう。(77-79、82-85、220-223)
宮崎哲弥とコミュニタリアニズム
評論家の宮崎哲弥氏は個人主義と国家主義をともに批判する立場をとります。これは旧来の古典的共同体主義とは異なり、宮崎氏は生家中心主義も批判しており、氏が夫婦別姓に懐疑的な論考を発表しているのもそれが実家への依存を高める男女を多く生産することにつながるという理由からです。また、登録上の法律姓にこだわるのは国家主義だと言います。氏は企業、官公庁等の職場および預金通帳作成などの場面での旧姓使用の徹底を主張しています。氏自身、結婚時に妻側の姓に変更しており、現在は法律上は「宮崎」ではありません。
その主張は都市化を前提とした、従来の家族の枠組みにとらわれない「家族的な親密圏」の重視であり、復古的道徳論等は批判の対象としています。
小谷野敦と新近代主義・日本共和党
小谷野敦氏(近代文学・超域文化科学)はリバタリアニズム・資本制・フェミニズムに対立する態度を示し、自らの立場を新近代主義と命名しています。資本制が家族や道徳を解体し、また大気汚染などの問題を考えると資本制をこのままにしておくわけにはいかず、家族の解体を叫び結婚は罠だとするフェミニストが人類の存続や文化の存続を考えているとは思えないと言います。
また、政治的には憲法9条を改正するとともに正式な日本軍を持ち、日米安保条約を双務的なものとし、天皇制を廃止し集団自衛権を確立する今だ不在の「日本共和党」支持者とならざるを得ないとしています。